『森に眠る魚』(角田光代)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『森に眠る魚』(角田光代), 作家別(か行), 書評(ま行), 角田光代

『森に眠る魚』角田 光代 双葉文庫 2011年11月13日第一刷

東京の文教地区の町で出会った5人の母親。育児を通して心をかよわせるが、いつしかその関係性は変容していた。- あの人たちと離れればいい。なぜ私を置いてゆくの。そうだ、終わらせなきゃ。心の声は幾重にもせめぎ合い、それぞれが追いつめられてゆく。凄みある筆致で描きだした、現代に生きる母親たちの深い孤独と痛み。渾身の長編母子小説。(双葉文庫)

※ 以下の文章は、文庫本 P378 ~ P383 にかけての、物語に登場するある母親のつぶやきです。誰かはわかりません。もしかすると、誰かではないのかもしれません。
・・・・・・・・・
私はどこを目指しているんだろう。いや、どこかを目指して出てきたのではなくて、いつもいたあの場所から締め出されてここを歩いているのだろうか。

いつもいたあの場所。下着やタオルの入った洗濯かごや、油のとんだやかんや積み重ねられた新聞紙。ごたごたと散らかってはいるが、間違いようもなく私の居場所であると、彼女は思う。けれどそこにいたのは、もうずいぶん昔のことのような気がする。

この子、なんだか表情がないわと言ったのはだれだったのか。わかっている。そんなこと、言われる前から気づいていた。認めたくなかっただけだ。ほかの子ができることをできないこの子に、苛立ちを覚えたのだ。

私が悪いのだ、ぜんぶ。私があの子から、表情を取り上げた。このままだったらどうしようと思うと、彼女はぞっとする。焦れば焦るほど、必要以上に叱りつけてしまう。

軌道修正をしなくてはと、彼女はもうずいぶん前から思っている。褒めて、褒めて、抱きしめて、どんなに愛しているか伝えようと思っている。けれど、うまくいかない。

うまくいかないのは、あの人たちがいるからではないかと彼女は思うようになった。あの人たちが、私を見ているのだ。どんなにうまくできないか、どんなに間違ったことをするか、どんなに困った事態になるか、じっと見ているからではないか。

自分たちが、私よりいかにいい場所にいるか確認するために。自分の子育てが私のそれよりいかに正しく、自分の子どもが私の子よりいかにすぐれているか、納得するために。だから私は躍起になって、あの子をちゃんとさせようとしてしまうのだ。

だったらあの人たちと離れればいいのだと彼女はわかっている。人は人、自分は自分なのだから。なのにそうすることができない。なぜできないのか彼女にはわからない。気がつけばあの人たちをさがしてしまう。あの人たち、なのか、あの人、なのか、彼女はすでに判断がつかない。

私が今までいた場所から締め出されたように感じるのは、あの人のせいではないかと彼女は考える。そう考えてしまう理由を、彼女はもはやさがさない。あの人がこんな暗い場所に私を連れてきたのではないか。

そう考えると、わからないことだらけのなかに、ひとつ、答えが見つかったような気持ちになる。だから彼女は、そのことを考え続ける。私がこんな時間にさまよっているのは、私が帰り着けないのは、彼女のせいではないか。

何がどうなってしまったのか、彼女にはまるでわからない。つねに正しいものを選んできたはずだった。正しい人と、正しく結婚したはずだった。しあわせだと確かに感じていたのだ。仕事を辞めたのも自分の意志だ。当然だ、私は母親になりたかったのだ。

自分の手に入るものを私はちゃんとわきまえていたし、それ以外のものをほしがったりはしなかった。このあいだまで、いや、つい昨日まで、日々は彼女にとって頑丈だった。いかなる時も、世界が終わるほどかなしい、くるしい、つらい、そう思っても世界は終わる気配を見せず、日々は頑丈にやってきた。

間違った道を選んだ覚えはない。子どもが生まれたときは、満ち足りるという言葉がようやくわかった気がした。この子には、私が今まで受け取ってきたすべての善きものを、受け取れなかったすべての善きものを、余さず与えようとしてきた。そして実際、そうしたのだ。そうしているのだ。

なのに今、彼女は子どもとともに、暗くじめついた不快な場所に閉じこめられたように感じている。何を間違ったというのだろう。どこで間違えたというのだろう。いや、私が間違ったのではないと彼女はふいに思い当たる。私が間違ったのではない、間違っただれかが私の場所に入りこんできたのだと。

その思いつきは、彼女の重苦しい気持ちを不思議なくらい一気に軽くする。私の場所に間違って入りこんできただれかに、出ていってもらえばいいだけなのだ。

- この小説は1999年11月22日、東京都文京区音羽で発生した幼女(当時2歳)殺害・死体遺棄事件をモチーフにしています。被疑者の逮捕後、「お受験」と呼ばれる幼稚園・小学校への入学試験にまつわる受験戦争が犯行動機とされ、「お受験殺人事件」「音羽お受験殺人事件」などとも呼ばれています。

この本を読んでみてください係数  80/100

◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「かなたの子」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「マザコン」「だれかのいとしいひと」「ドラママチ」「それもまたちいさな光」「対岸の彼女」他多数

関連記事

『煙霞』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『煙霞』黒川 博行 文芸春秋 2009年1月30日第一刷 WOWOWでドラマになっているらし

記事を読む

『また次の春へ』(重松清)_書評という名の読書感想文

『また次の春へ』重松 清 文春文庫 2016年3月10日第一刷 終わりから、始まる。厄災で断ち切

記事を読む

『農ガール、農ライフ』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『農ガール、農ライフ』垣谷 美雨 祥伝社文庫 2019年5月20日初版 大丈夫、ま

記事を読む

『後妻業』黒川博行_書評という名の読書感想文(その1)

『後妻業』(その1) 黒川 博行 文芸春秋 2014年8月30日第一刷 とうとう、本当にとう

記事を読む

『ビニール傘』(岸政彦)_書評という名の読書感想文

『ビニール傘』岸 政彦 新潮社 2017年1月30日発行 共鳴する街の声 - 。絶望と向き合い、そ

記事を読む

『みんな邪魔』(真梨幸子)_書評という名の読書感想文

『みんな邪魔』真梨 幸子 幻冬舎文庫 2011年12月10日初版 少女漫画『青い瞳のジャンヌ』

記事を読む

『四月になれば彼女は』(川村元気)_書評という名の読書感想文

『四月になれば彼女は』川村 元気 文春文庫 2019年7月10日第1刷 4月、精神

記事を読む

『モナドの領域』(筒井康隆)_書評という名の読書感想文

『モナドの領域』筒井 康隆 新潮文庫 2023年1月1日発行 「わが最高傑作 にし

記事を読む

『忌中』(車谷長吉)_書評という名の読書感想文

『忌中』車谷 長吉 文芸春秋 2003年11月15日第一刷 5月17日、妻の父が86歳で息を

記事を読む

『無限の玄/風下の朱』(古谷田奈月)_書評という名の読書感想文

『無限の玄/風下の朱』古谷田 奈月 ちくま文庫 2022年9月10日第1刷 第31

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『友が、消えた』(金城一紀)_書評という名の読書感想文

『友が、消えた』金城 一紀 角川書店 2024年12月16日 初版発

『連続殺人鬼カエル男 完結編』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『連続殺人鬼カエル男 完結編』中山 七里 宝島社 2024年11月

『雪の花』(吉村昭)_書評という名の読書感想文

『雪の花』吉村 昭 新潮文庫 2024年12月10日 28刷

『歌舞伎町ゲノム 〈ジウ〉サーガ9 』(誉田哲也)_書評という名の読書感想文

『歌舞伎町ゲノム 〈ジウ〉サーガ9 』誉田 哲也 中公文庫 2021

『ノワール 硝子の太陽 〈ジウ〉サーガ8 』(誉田哲也)_書評という名の読書感想文

『ノワール 硝子の太陽 〈ジウ〉サーガ8 』誉田 哲也 中公文庫 2

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑