『地を這う虫』(高村薫)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2023/04/05
『地を這う虫』(高村薫), 作家別(た行), 書評(た行), 高村薫
『地を這う虫』高村 薫 文春文庫 1999年5月10日第一刷
高村薫と言えば硬質で緻密な文章で知られる長編作家ですが、『マークスの山』 で直木賞と日本冒険小説協会大賞をダブル受賞した同時期に、いくつかの短編もまた上梓しています。
その中の4編が収められたのが本作 『地を這う虫』 です。
作品は全てが元警察官を主人公にした味わい深い物語で、「拍手は遠い。喝采とも無縁」 な男が、それでも矜持を持ち続けて生きる姿を描写しています。
「愁訴の花」
田岡は警察を定年退職後、小さな警備会社で警備員をしています。元同僚の須永の死が近いと連絡を受けた矢先に、これも元同僚で7年前に妻殺しの罪で逮捕・実刑判決を受けた小谷から電話が入ります。
小谷は刑期を終えて出所したばかりでした。小谷からの突然の電話に、田岡は古い記憶を呼び起こします。
「巡り逢う人びと」
岡田俊郎は警察を辞めた後消費者金融に勤め、取立ての仕事をしています。ある日、出勤途中で出会った元同僚から忠告を受けるのですが、それは岡田の会社が暴対法に抵触する可能性を示唆するものでした。
「父が来た道」
慎一郎は、かつて父親が長年後援会会長を務めていた政治家・佐多幸吉のお抱え運転手をしています。
父・信雄が4年前の総選挙で選挙違反を問われ有罪が確定すると、慎一郎は警察を依願退職します。佐多の運転手になったのは、後援会からの強い要請を断り切れなかったからでした。
半ば予想できたことでしたが、警察は慎一郎に佐多の情報を求めます。しかし、慎一郎が警察と内通していることは佐多も承知で、実は、逆に利用してもいたのでした。
「地を這う虫」
沢田省三は、倉庫会社と薬品会社の警備員をかけもちしています。昼間は倉庫会社、夜間は薬品会社の間を行き来する生活が5年続いていました。会社と会社の距離は300メートル。沢田は歩くルートを1ヶ月単位で決めて、計9通り設定したコースを9ケ月かけて50回ずつ歩くことを続けています。
道を歩きながら気がついた事を手帳に書き付けるのが、長い間の習慣になっていました。一辺300メートルの正方形の中で日々起こっている、小さな変化を沢田は見逃しません。
「地を這う虫」 の冒頭、職場でお茶を飲もうとしたとき、沢田は足元のコンクリートを這う一匹のゲジゲジに気付き、こんなことを思います。
「蠕動運動をくりかえすばかりで進路が定まらないように見えはするが、実は自然の摂理で生きている虫に、自分の行き先が分からないということはない」
「こいつは本能に従って、こうして右へ左へと這い回っているに違いない。そこには、虫なりの秩序もあるはずだ」
もうひとつ、これはラストの場面。夫婦で喫茶店に入り、妻の加代子が注文したケーキを食べようとした時、彼女が小さな悲鳴を上げます。
スカートの膝から払い落とされた蟻が一匹、テーブルの脇の床を這っていました。靴先で払おうとした加代子の膝を省三はそっと押し退けて、こう言います。
「踏み潰さないでくれ」...「この虫はな、俺なんだ・・・なに。ただ歩いているのさ」
タイトルの由縁と、収められた作品すべてを象徴する部分ではないかと。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆高村 薫
1953年大阪市東住吉区生まれ、吹田市に在住。
同志社高等学校から国際基督教大学(ICU)へ進学、専攻はフランス文学。
作品 「マークスの山」「照柿」「レディ・ジョーカー」「太陽を曳く馬」「冷血」「リヴィエラを撃て」「黄金を抱いて翔べ」「わが手に拳銃を」「新リア王」「太陽を曳く馬」
「晴子情歌」「半眼訥訥」など多数
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