『肝、焼ける』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/09
『肝、焼ける』(朝倉かすみ), 作家別(あ行), 書評(か行), 朝倉かすみ
『肝、焼ける』朝倉 かすみ 講談社文庫 2009年5月15日第1刷

31歳になった。遠距離恋愛中、年下の彼は何も言ってくれない。不安を募らせて、彼の住む町・稚内をこっそり訪れた真穂子は、地元の人たちの不思議なパワーを浴びて、なにやら気持ちが固まっていく - 。三十代独身女性のキモ焼ける(= じれったい)心情を、軽妙に描いた小説現代新人賞受賞作を含む、著者の原点、全五編。(講談社文庫)
「肝、焼ける」
・・・・・・・ たとえば、遠く稚内に赴任してしまった二十四歳の恋人、御堂くんに思いあまって会いにいく三十一歳女子のじれったい気持ちを描いた表題作。
中途半端にバットを出して自打球をすねにあてる野球選手を見て、〈ふるならふればいいじゃないか。わたしなら、と、寝そべりつつ、考えた。思いっきりふりにいってやろうじゃないの。からだを起こしてあぐらをかいた。四の五のいわずにきた球を叩っ返してやる〉 と息巻く女子が、
〈みっともない真似はしたくないんだと、つぶやいた。死んでもしたくない〉 といういっぱいいっぱいの気持ちを抱えて、恋人のアパートまで駆けていく姿が愛おしいこの小説の中で、朝倉さんは御堂くんを 〈あったかくて気持ちいいのに、背筋の産毛がそわっと起きてくる〉 声と、〈目からゆっくり笑う〉〈あとひき豆みたいな笑顔〉 の持ち主と描写。
転勤後、転居通知を寄こしたきり電話もかけてきてはくれず、思いきってこちらからかけてみれば、〈抜群の頃合いを見計らって〉 「電話、してくれてもよかったのに」 と答えることで少し心とろけさせてくれながら、
自分から連絡ができなかった 〈わたし〉 の 〈気兼ね〉 を 「ああ、やっぱり、真穂子さんなら、そのへん、わかってくれるかなと思ってたんだよね」 と無邪気に 〈気遣い〉 と受け取ってしまう御堂くんの、女子からしてみれば、”肝、焼ける” 以外の何ものでもない善意の鈍感さ、無神経さ、淡泊さを、朝倉さんの筆は絶妙な比喩と皆まで書かない抑制の筆致をもって十全に伝えるのだ。(解説より抜粋 by豊崎由美)
御堂くんは、月に二度くらい、わたしの部屋にやってきた。たべて、のんで、翌日帰った。泊まらないこともあった。泊まっていくのかいかないのか、その日の夜までわからなかった。だから、深夜に近づくと、わたしの口数が少なくなった。あいにく、わたしの部屋の時計は祖父の遺した柱時計で、御堂くんとの会話が途切れると秒針の動く音が大きくなる。百年休まずにチクタクチクタクの柱時計である。
御堂くんは鼻歌なんぞを歌っていた。「大きな古時計」 のサビを、あかい顔して歌っていた。あぐらをかいた足首を両手でつかんでいた。からだを揺すって拍子を取る。揺らしすぎてそのまま倒れ、クッションに頬をうずめ、ひどく満ち足りたためいきをついた。こういうの、いいよね、という。
「どこが」
「なんか、いいじゃない、こういうの」
わたしの 「どこが」 は少々怒気をはらんでいた。御堂くんの 「いいじゃない」 は額面通りに感じられる。そして情けないことに、わたしは御堂くんを見ていると、いいんじゃない、の境地になっていくのが常だった。酒ははいっているが、酩酊しているのではない。御堂くんは、へべれけのふうであるが、酔いが深いのではなく、ゆるんでいくのを愉しんでいるのだろうと思う。
わたしはほろ酔いを維持している。しかし、ほろ酔い以上にとろけている。御堂くんといるから、とろけるのだ。いかんともしがたい。(本文より/ P16.17)
休暇を取って稚内へ行くことは、御堂くんには知らせていません。真穂子はまず札幌で一泊し、翌日朝一番の列車に乗り、五時間揺られて稚内に着いたのは一時すぎのことでした。
地図を買い、コンビニエンスストアで蜂蜜を買います。(蜂蜜を買ったのは、欲しかったリップクリームが品切れしていたからでした) 駅と御堂くんの部屋とを行き来し、銭湯に入り、寿司屋を出ると、時刻は既に九時前になっています。
御堂くんが住んでいるのは三階建てのコーポの301号室でした。郵便受けを確認し、メモを書いて入れます。ドアをノックする勇気がありません。というか、彼女は端から御堂くんが留守だと思っています。今日が土曜日だということを、すっかり忘れています。
[収録作品]
1.肝、焼ける
2.一番下の妹
3.春季カタル
4.コマドリさんのこと
5.一入(ひとしお)
この本を読んでみてください係数 85/100

◆朝倉 かすみ
1960年北海道小樽市生まれ。
北海道武蔵女子短期大学教養学科卒業。
作品 「田村はまだか」「夏目家順路」「深夜零時に鐘が鳴る」「感応連鎖」「玩具の言い分」「ロコモーション」「恋に焦がれて吉田の上京」「平場の月」他
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