『赤へ』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『赤へ』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(あ行)

『赤へ』井上 荒野 祥伝社 2016年6月20日初版

ふいに思い知る。すぐそこにあることに。時に静かに、時に声高に - 。
「死」を巡って炙り出される人間の“ほんとう”  直木賞作家が描く「死」を巡る10の物語。(「BOOK」データベースより)

第29回柴田錬三郎賞受賞作品です。

10ある話の中の9番目、「母のこと」と題した一編を紹介しようと思います。これは「私」という一人称で綴られた、井上荒野が実の母親をモチーフに、亡くなるまでの、共に過ごした1年余の暮らしを回想した「ほんとう」の話であるらしい。

膵臓がんが見つかったとき、「よかったわ」と母は言った。これで決着がつくわ、と。百パーセントではなかったかもしれないが、九十五パーセントは本心であるように思えた。

物語は、こんな書き出しで始まります。そのとき、母は83歳。膵臓がんにならなくても、もうそれほど長い間は一緒にいられない。そうわかっていながら、それがいつなのかはずっと考えずにきたけれど、とうとうそのときがやって来たのだと。

ふいに涙がこみ上げてきた私に向かって「大丈夫だったら」と、母は当惑した、迷惑そうにすら見える表情で言います。「私はもうじゅうぶん生きたんだから。そろそろ終わりにしたいなあと思ってたのよ。ようやくカタがつきそうで、ちょっとほっとしているのよ」と。

母は、記念とか、思い出とか、記憶とか、魂とか、そういう諸々が苦手で、嫌いだったのではないかと。そんなものを後生大事にして、わざわざ悲しくならなくたっていいでしょう、と。そんな人であったのです。

私、夫、母の三人で暮らす内、母は段々と衰弱し、小さな錯乱を起すようになります。入院してもいいかどうかと訊くと、「もう少し家にいたい」と言います。いったんは入院を延期したのですが、その内横たわったままずっと目を開けているようになり、最後は救急車を呼んで病院へ連れていくことになります。

それが水曜日のこと。その時はまだ声をかけると頷いたのですが、病室に運び込まれて、ベッドに横たわったときには、もうどんな呼びかけにもほとんど反応しなくなります。亡くなったのは金曜日、9月5日の朝のことです。

同じがんで亡くなった父と比べると、母は死に寄り添うようにして、無抵抗で死んでいった、という印象があります。自分が近々死ぬということを認めまいとするように、ぎりぎりまで仕事を続けた父みたいにではなく、私は、母のように死にたいと思います。

どちらが正しいのかはわからない。人間は生きていくもの、生きていかなければならないものだと思っている私からすれば、ある時期からの母の態度は、あきらかに「死んでいくもの」のそれとみえるのですが、しかしまた、死ぬことも生の一部ではないかと・・・・

(私には)後悔がひとつあります。母に抱きつきたいと、ずっと思っていたのです。そんな真似は小さな子供の頃にしかしたことがなかったので、最後に一度だけそうしてみたかったのですが、結局、果たせぬままに母は逝きます。

母を入院させた日、救急車を待つ間に(私は)そっと母の隣に横たわり、背後にぺたりとくっついてみます。しばらくの間そうしていると、母は唸って、うるさそうに体をねじります。

そのとき(私は)、人は生きている間は生きているのだ、と、当たり前のことをあらためて思ったりします。死ぬことがわかっていても、死に向かって少しずつ弱っていても、それでも生と死の間にはくっきりした境界線があるのだと。

母は亡くなったのに、取り返しがつく、となぜか(私には)思えます。熱を出したしばらくあとには元気になったように、もっと悪くて和室で伏せっていたときも、襖を開けると、母は枕をふたつ重ねて本を読んでおり、声をかければさっくり起きあがったときのように、これまでそうだったように、この死も、そんなふうに覆せるのではないかと。

しかし、それからふいに気がつきます。覆らない。どうしたって取り返しがつかないのだと。母はもう生き返らないのだと気づいて、私はぎょっとします。- おかしな話だが本当に、そのことは不意をつくように認識されるのだ。- そして、それから悲しみが、毎回、はじめて会うような顔をしてやってくるのだと。

今頃は父と・・・・と口にするたびに、あの世で過ごす二人の光景が私の脳裏にあらわれて、情景の細部や母の表情が加筆されていきます。「死後の世界」を信じている、というのとはちょっと違うのかもしれない。利用している、といったほうがいいのかもしれない。

とにかくそれで、どうにか悲しくなりすぎずにすむ。母のことがとても好きだった。母が死ぬなんて堪えられない、とずっと思っていたが、案外しのいでいる。そうこうして、日々は過ぎていっている。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「そこへ行くな」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「夜を着る」「誰かの木琴」「雉猫心中」「結婚」他多数

関連記事

『命売ります』(三島由紀夫)_書評という名の読書感想文

『命売ります』三島 由紀夫 ちくま文庫 1998年2月24日第一刷 先日書店へ行って何気に文

記事を読む

『ユージニア』(恩田陸)_思った以上にややこしい。容易くない。

『ユージニア』恩田 陸 角川文庫 2018年10月30日17版 [あらすじ]北陸・K

記事を読む

『肝、焼ける』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文

『肝、焼ける』朝倉 かすみ 講談社文庫 2009年5月15日第1刷 31歳になった

記事を読む

『アイ・アム まきもと』(黒野伸一 著 倉本裕 脚本)_書評という名の読書感想文

『アイ・アム まきもと』黒野伸一 著 倉本裕 脚本 徳間文庫 2022年9月15日初刷

記事を読む

『午後二時の証言者たち』(天野節子)_書評という名の読書感想文

『午後二時の証言者たち』天野 節子 幻冬舎文庫 2017年10月10日初版 八歳の女児が乗用車に撥

記事を読む

『Aではない君と』(薬丸岳)_書評という名の読書感想文

『Aではない君と』薬丸 岳 講談社文庫 2017年7月14日第一刷 あの晩、あの電話に出ていたら。

記事を読む

『噂』(荻原浩)_書評という名の読書感想文

『噂』荻原 浩 新潮文庫 2018年7月10日31刷 「レインマンが出没して、女の子の足首を切っち

記事を読む

『殺戮にいたる病』(我孫子武丸)_書評という名の読書感想文

『殺戮にいたる病』我孫子 武丸 講談社文庫 2013年10月13日第一刷 東京の繁華街で次々と猟奇

記事を読む

『死にたくなったら電話して』(李龍徳/イ・ヨンドク)_書評という名の読書感想文

『死にたくなったら電話して』李龍徳(イ・ヨンドク) 河出書房新社 2014年11月30日初版

記事を読む

『アンソーシャル ディスタンス』(金原ひとみ)_書評という名の読書感想文

『アンソーシャル ディスタンス』金原 ひとみ 新潮文庫 2024年2月1日 発行 すぐに全編

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『あいにくあんたのためじゃない』(柚木麻子)_書評という名の読書感想文

『あいにくあんたのためじゃない』柚木 麻子 新潮社 2024年3月2

『執着者』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『執着者』櫛木 理宇 創元推理文庫 2024年1月12日 初版 

『オーブランの少女』(深緑野分)_書評という名の読書感想文

『オーブランの少女』深緑 野分 創元推理文庫 2019年6月21日

『揺籠のアディポクル』(市川憂人)_書評という名の読書感想文

『揺籠のアディポクル』市川 憂人 講談社文庫 2024年3月15日

『海神 (わだつみ)』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『海神 (わだつみ)』染井 為人 光文社文庫 2024年2月20日

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑