『元職員』(吉田修一)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『元職員』(吉田修一), 作家別(や行), 吉田修一, 書評(ま行)
『元職員』吉田 修一 講談社 2008年11月1日初版
吉田修一の本の中では、どちらかと言えばこの小説は目立たない方かも知れません。扱っている題材が「公金横領」と「逃避行」ですからベタと言えばベタで、読者はある程度事の顛末が想像できてしまうからでしょう。
「元職員」というタイトルには何かしら想像をかき立てる雰囲気がありますし、書出しから続くバンコクの情景描写は、現地の蒸し暑く猥雑な様子がよく描かれています。
主人公である栃木の公社職員・片桐が、勤め先から数千万円の現金を着服したままで、リフレッシュ休暇を利用して海外旅行に来ているわけですが、
この事情が判明した時点で興味の何割かが減退するのは、私だけでしょうか。
メディアが騒ぎ立て世間が一斉に注目するような事件や事故を題材にして小説を書くのは、プロの小説家にとっても如何ばかりか難しいと思います。
殺人を頂点とする凶悪犯罪、巨額の詐欺や横領などは事件そのものがセンセーショナルで、その衝撃をさらに上回る刺激をタイミング良く与えないと読者は満足しないからです。
吉田修一には『悪人』や『怒り』あるいは『さよなら渓谷』などの「悪」を扱った名作が多くありますが、それらと比較するとこの小説は少々おとなしい仕上がりに感じます。
小説をよく読まれる方は、この小説から角田光代の秀作『紙の月』を想起されると思います。
『紙の月』では、主人公である銀行のパート社員・梅澤梨花は、得意先で知り合った大学生の光太と深い関係になり、徐々に彼との逢瀬にのめり込んでいきます。
贅沢を尽くし欲しい物を与えますが、梨花は最後に光太から「ここから解放してほしい」と言われてしまいます。
一方この小説の片桐は、バンコクで日本人の若者・津田武志と偶然知り合い、彼から紹介された娼婦のミントに惹かれ離れがたくなります。
しかし、旅の最後にミントの弟が出場するムエタイの試合を観戦した後、予期せぬしっぺ返しを受けてしまいます。
共通しているのは、横領と一時的な逃げ場が海外であること。
そして、梨花には光太、片桐にはミント。夫や妻ではない異性の存在と背信の心です。
原因と結果は真逆ですし、揺れ動く心情の機微は男女で明らかに違うものがあり似て非なる小説ですが、破滅に向かう道行には同じ気配が漂います。
片桐は現金を着服しはじめたかなり早い段階で、自分がもう後戻りできないことを薄々感付いていたと思いますし、
この先にどんな結末が待っているのかも十分承知していたはずです。
しかし、それでも横領をやめないのは、後戻りできない覚悟と破滅の対岸にみえる、かつて味わったことのない解放感への誘惑なのかも知れません。
物語の終りで片桐がみせる開き直りは、近い将来自分の肩書きが「元職員」になることを予見した上での、最後の、愚かな矜持なのでしょう。
この本を読んでみてください係数 75/100
◆吉田 修一
1968年長崎県長崎市生まれ。
法政大学経営学部卒業。
作品 「最後の息子」「熱帯魚」「パレード」「パーク・ライフ」「東京湾景」「7月24日通り」「悪人」「横道世之介」「平成猿蟹合戦図」「愛に乱暴」「怒り上・下」など多数
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