『はんぷくするもの』(日上秀之)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/09 『はんぷくするもの』(日上秀之), 作家別(は行), 日上秀之, 書評(は行)

『はんぷくするもの』日上 秀之 河出書房新社 2018年11月20日初版

すべてを津波に流された者、
波の飛沫一滴すらかからなかった者 -

私こそが正義であり、お前は悪なのだ

毅、30代独身、自営業、資格ナシ、友だちひとり。
タタミ十畳の仮設商店で、今日も3,413円のツケを巡る攻防がはじまる (河出書房新社)

第55回文藝賞受賞作

古木がかつて住んでいた家というのは、町の高台というよりも奥まったところにある古い造りの平屋の一軒家で、周囲に家はなく、古木の家だけがぽつんと建っています。

病弱の父親と二人で暮らす古木は、30歳を過ぎたばかりの毅よりは幾分年嵩ではあるもののまだまだ若いのですが、定職につかず日頃何をしているのかわかりません。父親が受け取る僅かばかりの年金を頼りに、倹しい暮らしをしています。

毅の店では決まってツケで、意を決し回収しようと毅が古木の家を訪ねると、そこには誰もいません。聞くと、赤街の市街地へ引っ越したといいます。改めてその住所を訪ねると、そこは二階建てのアパートで、そこで毅は一人の中年女性と出会います。

振り返ると中年の女だった。花柄のやたらと派手な色合いのカットソーを着ている。スボンは逆に灰色の地味なスラックスだ。女は膨れ上がった頬と鼻の上に浮かぶ疑わしげな瞳でこちらをきっかり三秒見て、牛歩のように歩き出した。それは監視しているぞという意思表示に毅には思われた。

田舎から出てきたな、と女は思ったのではないか。ここも田舎だが、もっと辺境の、住むことすら憚られるところからやって来たな。ここは都会だ。都会から見れば長閑な田舎でしかないが、赤街全体から見れば都会の部類で住宅地なのだ。そこにお前の居場所などあるはずがないだろう。そんな田舎者みたいな格好で歩き回って恥ずかしくはないのか。

毅は全身を確認した。下はチノパンで、上はブルーのカジュアルシャツである。とてつもなく平凡だが、こんな人間がいても特段おかしくあるまい。それが甘いのだと女は思うだろう。その無難さが癌なのだ。(以下略/毅の一人思いはまだまだ続きます)

女は主婦でないことに威厳を感じて肥満した腹と垂れた胸を張った。パート労働でレジ打ちをしている私と、過疎地域の誰も来ない店で店員をしているお前と、一体どちらが上だろうか。そんなことはわかりきったことだ。お前は自営業者として店主と言っても良い地位にいるが、私はお前より稼いでいる。私こそが正義であり、お前は悪なのだ。(P65 ~ 67)

古木が電話で 「今度こそは必ず支払いに行く」 と連絡してくるのはいつものことで、毅はまるで信用していません。母の具合がさらに悪くなり、催促する気力もなくなりかけていた頃に掛かってきた古木との電話のやり取りで、遂に毅は爆発します。

「あなたに許したツケを気に病んで母が具合を悪くしている」 と迫る毅に対し、僅かに吃りながらも古木が 「知りませんよ」 「お金を払わないと具合が悪くなるなんて、それじゃあおかしな守銭奴みたいじゃないですか」 と言った時、そのどこか下卑た言葉に、毅はとうとう我を忘れたのでした。

「あなたは最低の人間なんですよ」 「嘘をついて人を貶め、金を借りても返さなくていいと思っている」 「あなたはそういう卑劣漢なんだ。でもね、あなたは詰まるところどこにもいけませんよ。今だって働いていないんでしょう。親の年金で生きているんでしょう」 「それでどこかに辿り着けるなんて思わないことです。きっと野垂れ死ぬのがオチですよ」 (毅の古木に対する罵倒はまだまだ続きます)

無言ではあるものの、電話は繋がっています。深い呼吸の音がしたあと、最初は静かに、しかし徐々に声は地鳴りのように高くなりながら、毅に対し古木はこう言ったのでした。

あなたは津波に家を流されたじゃないですか
「我が家はね、全く無事だったんですよ。波の飛沫すら一滴もかかりはしなかったですよ。どこもなんともなかったんですよ。まるで何事もなかったみたいに、俺は過ごしていたんですよ!

なぜそんなことを古木さんが得意げに、どこか因縁でも付けるみたいに話しだしたのか、毅には皆目見当がつかなかった。何かを誇っているのだろうか。だが、そんな調子ではない。では、何かを憎んでいるのだろうか。しかし、彼の怒りをかぶらなければならない理屈など、毅には津波をかぶる以上にありはしなかった。(P95)

※毅が出会った一人の中年女性の言葉や、毅に向けた古木の怒りの根っこには、(震災は震災としてありながら、それとは別に) おそらくは “はんぷくするもの” としてある日常の、果てないどうしようもなさといったものがある気がします。著者はそれこそを書きたかったのだろうと。

この本を読んでみてください係数  85/100

◆日上 秀之
1981年岩手県宮古市生まれ。

作品 本作で第55回文藝賞を受賞しデビュー。岩手県在住。

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