『ジェントルマン』(山田詠美)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/14
『ジェントルマン』(山田詠美), 作家別(や行), 山田詠美, 書評(さ行)
『ジェントルマン』山田 詠美 講談社文庫 2014年7月15日第一刷
第65回 野間文芸賞受賞作
【漱太郎という存在を「ジェントルマン」と名指すことによって、一般的に思われているジェントルマンが形ばかりのものにすぎないことを、この作品は暴いた。さらに、漱太郎の欲望をつぶさに描くことで、ジェントルマンという言葉に新たな命を注ぎ、生まれ変わらせる。
いったん、その言葉が内容のない空虚なものであることを見せて葬り去っておいて、今度は生々しいものへと蘇らせるのだ。】(星野智幸の解説「ジェントルマン以後の世界」より)
山田詠美にしか書けない小説、の代表的な作品です。ひょっとするすると語り手である〈夢生〉が〈男性なのに男性しか愛せない〉所謂LGBT(=性的少数者)に属する人物であることに抵抗感がある方がいるかも知れませんが、それはこの小説の本質ではありません。
・・・・・・・・・・
夢生が坂井漱太郎と関わりを持つことになるのは、高校2年の1学期も終わりに近い頃です。その頃すでに漱太郎の存在は際立ったもので、学内で知らない者はいません。眉目秀麗、文武両道、しかも弱きを助け、強きをくじく、漱太郎は、完全無比な青年でした。
女生徒はもとより、彼は同性からも好かれます。誰よりも秀でているのに、馬鹿もやれる話せる奴として親しまれます。そして、それがますます女たちの好感度を上げます。ほんの少し自分を貶めて笑わせるという術を習得して、非の打ちどころがありません。
目立たない生徒への心配りにも抜かりがない漱太郎に感心する一方で、夢生は、それを余計なお世話だと思っています。善意の塊にみえる漱太郎に対して、夢生は少しひねくれた傍観者でいる自分を楽しんでいます。しかし、決して悪意があるわけではありません。
夢生の他にもう一人、漱太郎にシニカルな視線を送る女生徒がいます。藤崎圭子は、夢生が掬い取った匂いと同じものを漱太郎に感じています。2人はすぐに(恋人ではなく)親友となり、その関係は大人になるまで続きます。
・・・・・・・・・・
夢生と漱太郎の関係を決定付けた出来事は、同時に夢生をひどく興奮させる出来事でもありました。漱太郎が隠し持っていた意外性に、夢生はその場を離れることができません。
台風が近づく、夕方の暗い茶室でのことです。漱太郎が、今まさに華道部の顧問である村山先生を犯そうとしています。抵抗する村山先生を押さえ付け、漱太郎はベルトのバックルを緩めようとしています。助けを求めて先生は叫びますが、外には届きません。
障子の手前で漱太郎の声を聞いた瞬間、夢生のすべての感情がどこかに連れ去られてしまいます。残ったのは、ただ見届けたいという欲望だけです。女を犯すという卑劣な行為は漱太郎に汚点を与え、それ故に、夢生の気をそそって止むことがありません。
隠されていた道徳の汚れ。男のそれほど、夢生の心を疼かせるものはありません。半開きになった口。そこから滲み出た唾液が唇を濡らし、いつもの品のある口許に下卑た化粧を施している漱太郎の顔を見るのは自分ただひとり。その思いが、夢生を歓喜で包みます。
・・・・・・・・・・
夢生が漱太郎の〈告解の奴隷〉となる経緯が綿々と語られた後、時は一気に20年後へ飛びます。漱太郎は大手の銀行員となり、親の勧めに従って見合い結婚し、2人の子どもがいます。世に言う順風満帆で、彼はますます紳士然とした風貌になっています。
しかし、これはあくまで表の顔、漱太郎の〈ジェントルマン〉としての顔です。夢生が、家族を愛している? と聞くと「人が家族を愛するようには愛しているよ。でも・・」
「おれが愛するようには、愛していない」と、続けるのでした。漱太郎が心から求める愛の形は歪で、時に暴力に取って代わります。昔から鍵穴をこじ開けるのが大好きだったと、漱太郎は無邪気に言います。夢生の心に、漱太郎が描くシュールな世界が広がります。
漱太郎がそつない態度を取れば取るほど恐くなる、と圭子は言います。彼女が感じるのと同じ気配を夢生も感じています。圭子はそんな漱太郎を恐れ、一方の夢生は、その得体の知れない気配に欲望を掻き立てられています。夢生は、漱太郎に惚れているのです。
漱太郎の悪魔のような本性、天性のエゴイストの善悪を弁えない振る舞いに魅入られた夢生は、ひたすら漱太郎からの愛の施しを待ち焦がれています。夢生は、漱太郎の罪を知るただひとりの人間として彼を愛し、守り抜こうと心に誓っています。
・・・・・・・・・・
形こそ歪ですが、夢生が抱く恋情は真性で、どこまでも純粋です。それに比べ、漱太郎の人格は複雑です。善人の仮面を纏った極悪非道の男として片づけてしまうのは、何やら早計な気がします。漱太郎ほどではないにせよ、似たような奴は結構いるんじゃないかと。
いや、そもそも漱太郎は善人の〈ふり〉をしていたわけではなく、日常では正真正銘の善人なわけです。一々意識しなくとも、自然に人を気遣い、人に優しくできる人間なのです。圧倒的に周囲の人々から支持される、模範的な人間であることには違いないのです。
〈ジェントルマン〉とはどのような人物を指して言うのか、この小説を読むと、これまでのイメージが限りなく曖昧で頼りないものに思えてきます。漱太郎が備え持つ二面性には、人間が背負わされた底知れぬ罪が隠れているように思えてならないのです。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆山田 詠美
1959年東京都板橋区生まれ。
明治大学日本文学科中退。
◇ブログランキング
関連記事
-
『すみなれたからだで』(窪美澄)_書評という名の読書感想文
『すみなれたからだで』窪 美澄 河出文庫 2020年7月20日初版 無様に。だけど
-
『生命式』(村田沙耶香)_書評という名の読書感想文
『生命式』村田 沙耶香 河出文庫 2022年5月20日初版発行 正常は発狂の一種
-
『すべての男は消耗品である』(村上龍)_書評という名の読書感想文
『すべての男は消耗品である』村上 龍 KKベストセラーズ 1987年8月1日初版 1987年と
-
『十一月に死んだ悪魔』(愛川晶)_書評という名の読書感想文
『十一月に死んだ悪魔』愛川 晶 文春文庫 2016年11月10日第一刷 売れない小説家「碧井聖」こ
-
『錆びる心』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文
『錆びる心』桐野 夏生 文芸春秋 1997年11月20日初版 著者初の短編集。常はえらく長い小
-
『孤狼の血』(柚月裕子)_書評という名の読書感想文
『孤狼の血』柚月 裕子 角川文庫 2017年8月25日初版 昭和63年、広島。所轄署の捜査二課に配
-
『69 sixty nine』(村上龍)_書評という名の読書感想文
『69 sixty nine』村上 龍 集英社 1987年8月10日第一刷 1969年、村上
-
『新宿鮫』(大沢在昌)_書評という名の読書感想文(その1)
『新宿鮫』(その1)大沢 在昌 光文社(カッパ・ノベルス) 1990年9月25日初版 『新宿
-
『ここは退屈迎えに来て』(山内マリコ)_書評という名の読書感想文
『ここは退屈迎えに来て』山内 マリコ 幻冬舎文庫 2014年4月10日初版 そばにいても離れて
-
『呪文』(星野智幸)_書評という名の読書感想文
『呪文』星野 智幸 河出文庫 2018年9月20日初版 さびれゆく商店街の生き残りと再生を画策す