『遮光』(中村文則)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/14 『遮光』(中村文則), 中村文則, 作家別(な行), 書評(さ行)

『遮光』中村 文則 新潮文庫 2011年1月1日発行

私は瓶に意識を向けた。近頃指がまた少し変色したような気がし、不安だった。美しく褐色に染まっていた指は、近頃、より色を濃くし、その色相の進行は段々と、美しいと表現することを難しくしていた。それは私がまだ若干の客観性をもっている証拠であるのかもしれないが、その客観性は、私にとって、もう邪魔なものでしかなかった。私には、この指が必要だった。見境もなく、狂うほどに愛したかった。(本文より)

「どうしようもない事柄、というものがある。いくら平和な国で生活しているとはいっても、乗り越えがたい苦しみは、確かに存在する」-小説の最後にある短い「あとがき」は、こんな文章で始まります。

中村文則という人は、どこまでも自分の中にある「どうしようもない事柄」に拘って、その言いようのない心持ちを、何とか言葉に換えようとします。その内容は大概が陰鬱な上に難解、ときには狂気と紙一重で、意識の際の際まで抉り出そうと足掻きます。

この小説は、死んでしまった恋人の小指を偏執的に愛する、一人の青年の物語です。著者の言葉を借りれば、「世界の成り立ちの不条理に対して、勝てる見込みのない抵抗を試みた、一人の虚言癖の青年の記録」ということになります。
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主人公の「私」は、恋人の遺体から小指を盗み出し、ホルマリン漬けにした挙句、その瓶を黒いビニール袋に入れて後生大事に持ち歩きます。これだけですでに狂気の沙汰ですが、
この小説の場合、その狂気を冷静に見つめる「もう一人の私」の存在こそが重要です。

「もう一人の私」は、「私」の心情やあらゆる行為に及ぶ際の意識の揺れなどといったものを冷徹に捉え、ときに詳細に分析さえしてみせます。そして、自分の心根とは裏腹に、平気で嘘をつきます。

乗りたくもないタクシーに手を挙げて、「子供が生まれそうなのです」と思いつきを言い、行きたくもない病院へ行けと指図します。他人の話をいつもうわの空で聞いては、相手が喜ぶのを見越して適当な返事を繰り返します。

セックスがしたいと相手の女性に迫りはするものの、実は勃起もしていません。青年(=「私」)の態度は、それを言うべくして言うのではなく、「そう言うことにした」から言ったまでのことで、投げやりで、おざなりな、まるで空虚な嘘の集合体です。

その最たるものが、美紀に関する嘘です。彼は恋人の美紀の事故死を周囲に隠しながら、彼女は今でも生きていると言い続けます。彼女が望んでいたアメリカ留学を果たしたことを誇らし気に、幸福そうに、まるで本当の話のように語ります。
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その一方で、青年は、ホルマリン液に漂う小指入りの瓶を手放すことができません。彼は、どこかで、自分が死というものに抵抗しているような、大袈裟に言えば、神のようなものに抵抗しているような、そんな錯覚さえ感じ、時折、「気分がよくなったり」します。

瓶に慣れてしまえば持っていることは容易くて、手放す気持ちも失せ、自分のしたことを後悔することもありません。その大きな理由の一つとして、彼は指に対して抱く自分の大きな感情に気付きます。

時折、小指を激しく求めたくなる瞬間が訪れ、指の中に美紀を感じ、美紀と一体になったような激しい感覚に包まれます。それはどうしようもないほどの陶酔であり、幸福です。彼は涙さえ流し、実際の生死など取るに足らないものであるような気持ちになります。
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「衝動を抑えられない自分」と、もう一人の「今まさに衝動的な行為に及んでいる自分を客観視している自分」-この構図は、中村文則が書く小説の基本的なパターンと言ってよいでしょう。

青年は、自らが抱える不条理を自らの手で解明しようとします。しかし、不条理故に手出しができず、けれども認めることが出来ない「どうしようもない事柄」を前にして、「恋人の小指」に固執する余り、それ以外の現実に関心を示そうとはしません。

それはまるで、自らの生き死にの境界をさ迷っているようにも、すでに何かを成し遂げたあとの諦念のようにも映ります。中村文則の小説にハッピーエンドはありません。青年はこのあと、さらなる「どうしようもない事態」へと、自らを追い込んでいくことになります。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆中村 文則
1977年愛知県東海市生まれ。
福島大学行政社会学部応用社会学科卒業。

作品 「銃」「悪意の手記」「迷宮」「土の中の子供」「何もかも憂鬱な夜に」「掏摸〈スリ〉」「悪と仮面のルール」「最後の命」「去年の冬、きみと別れ」他多数

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