『あのひとは蜘蛛を潰せない』(彩瀬まる)_書評という名の読書感想文

『あのひとは蜘蛛を潰せない』彩瀬 まる 新潮文庫 2015年9月1日発行

ドラッグストア店長の梨枝は、28歳になる今も実家暮らし。ある日、バイトの大学生と恋に落ち、ついに家を出た。が、母の「みっともない女になるな」という〈正しさ〉が呪縛のように付き纏う。突然消えたパート男性、鎮痛剤依存の女性客、ネットに縋る義姉、そして梨枝もまた、かわいそうな自分を抱え、それでも日々を生きていく。ひとの弱さもずるさも優しさも、余さず掬う長編小説。(新潮文庫解説より)

一人暮らしがしたいという気持ちを、梨枝が初めて打ち明けるシーンがあります。彼女がここに至るまでには幾度かの逡巡があり、相当なる覚悟の上だということを、まずご理解ください。

「お母さん、聞いてほしいことがあるの」- 梨枝の決意は、こんな言葉で始まります。それに対する、最初の母の反応はこうです。

「なーに馬鹿なこと言ってるのよ、あんた、一人じゃなんにも出来ないじゃない。しかも最近じゃ一人暮らしの女の子が事件にあったり、殺されたり、物騒でたまったもんじゃないわ。ダメよ、ぜったいダメ。結婚前だってのに、変な噂が立ったらどうするの」

私はもうすぐ三十で、外では普通に働いている。お願いだからもうちょっと信用してくれと言っても、母はまるで聞く耳を持ちません。

「馬鹿馬鹿しい。たいして給料もよくないくせに、一人暮らししてどうするの? お金をどぶに捨てるつもり? 食事や家の掃除はどうするの? 出来ないでしょう? (中略)職場が遠いわけでもないのに家を出たいなんて、私は遊びたいですって言ってるようなもんよ。いい歳してみっともない。(後略)」

どうです? この、梨枝の負けっぷり。あるいは、母の勝ちっぷり。2人は決して仲の悪い母娘ではありません。互いが好きで、互いのことを思っているからこそ、梨枝は言い切ることが出来ず、母は母で心から娘のことを考えているのです。

「いつかわかるわ。この世に、お母さん以上にあんたのことを考えてる人間なんていないんだから!」・・・これが、母の最後の捨て台詞。結局和解は成立せぬまま、物別れ状態で梨枝は家を出て行くことになります。
・・・・・・・・・・
〈あのひとは蜘蛛を潰せない〉とは何とも思わせぶりですが、タイトルとか文庫の帯-(椎名林檎大絶賛ときて、「この作品は、体だけ歪に成人した我々のための手引書である」なんて書いてある)- は少々煽りぎみの力み過ぎ。どちらかと言えば平凡すぎるくらいの、特別なことが何もないところが「特別」なくらいの話です。

上手に書いてるなと感心したのは、主人公の野坂梨枝と母親との関係です。これは、(実は身近にまったく似たような母娘がいたりして)ちょっと面白くもあり、考えさせられもしたのですが、共依存関係にある2人が、やがてその関係を解消して互いに新たな立ち位置を見出していく過程が非常に分かりやすく描かれています。

ドラマや映画に出てくるような、いかにもドラマチックな出来事などはそうそう起こるものではありません。梨枝にしたところで、何かの目標や意図があって28歳まで独身でいた訳でもなく、普通に仕事をして、普通に暮らしていたらそうなったまでのことです。

幼い頃に両親が離婚し、6歳年上の兄は幼なじみと結婚して家を出たので、今は母親と二人暮らし。勤めているのは地域密着型のドラッグストアで、家から通えるので実家にいるだけで、それを疎ましいとも思わず、ましてや実家を出ようなどとは夢にも考えていません。

ところが、母親の友人から持ち込まれた見合い話というのが、梨枝の心を大きく揺さぶることになります。母親は、梨枝には何も言わず、娘の婿養子になることを条件に梨枝の結婚相手を探してくれと頼んでいたのです。

確かに梨枝は母親が一人になることを気にかけて、兄が出て行くなら当然自分が母親のそばにいるべきだと考えていたのです。しかし、自分が婿養子をとり、結婚した後もずっと母親と同居し続けるとは考えてもいないことでした。

そんなときに(限って)、梨枝は恋をします。(ちなみに、このときの梨枝はまだ処女です)相手は、アルバイトとして雇い入れた8つ年下の大学生で、三葉陽平という青年。もとより本気で付き合うなどとは思ってもいなかった梨枝ですが、次第に彼女の心は陽平へと傾いていきます。

梨枝はどこにでもいそうな、普通で、少しだけ奥手な女性です。そんな彼女が一人暮らしを始め、恋と仕事に振り回されるうちに何かに目覚め、やがて新しい一歩を踏み出していく - そんな、いかにもありそうな、まことに平凡な物語です。

この本を読んでみてください係数  80/100


◆彩瀬 まる
1986年千葉県千葉市生まれ。
上智大学文学部卒業。

作品 「花に眩む」「サマーノスタルジア」「傘下の花」「骨を彩る」「伊藤米店」「神さまのケーキを頬ばるまで」「桜の下で待っている」他

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