『くまちゃん』(角田光代)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/13
『くまちゃん』(角田光代), 作家別(か行), 書評(か行), 角田光代
『くまちゃん』角田 光代 新潮文庫 2011年11月1日発行
例えば、結局ふられてしまうことになる古平苑子(23歳)は、こんな風に思っています。
中学二年生のとき、苑子の身長は154センチでぴたりと止まり、それ以上まったく伸びなくなったが、自分の精神というものも入社時にぴたりと止まり、何も吸収しないまま伸びないばかりか、縮んでいくのではないだろうかと、苑子はときどき考えていた。
苑子が気づくと好きになっていたのは、「くまちゃん」こと持田英之(25歳)。彼が理由も告げずに姿を消したとき、彼女はこんな風に思い返します。
あのとき25歳だったあの男の子は、自分の凡庸さを壊すのに必死だったんだろう。ただ酒を飲むために、知りもしない花見客に混じること。そこで知り合った女の子とその日のうちに寝ること。野良猫のようにその子の家に居着くこと。ふらりといなくなること。
「どうしようもない男だ」と思わせること。そんなようなことに、懸命に、きまじめに、必死に心を砕いていたんだろう。非凡なだれかになるために。まじめで平凡で平和な、大嫌いな自分から少しでも遠く逃げるために。
くまちゃんは、あるバンドのボーカリストに心酔しています。彼は世界的に有名な総合アーティストであるらしいのですが、苑子にはまるでその良さが分かりません。バンドの演奏は雑音としか思えず、悪酔いしそうで、立っているのがやっとなくらいです。
けれども、彼らを見つめるくまちゃんの恍惚とした表情、情けないほどの無防備さは、彼らに対する畏敬の念をあまりにも素直に全身からみなぎらせているようで、失望させるどころか、苑子を感激すらさせるのでした。
「あの男の子は本当にこのアーティストが好きだったんだな」と、苑子は思います。彼に憧れ、彼の才能を賛美し、彼の持つ力にひれ伏し、そうすればそうするほど、自分の凡庸さが許せなくなる。その凡庸さを壊すがために、他人の花見にわざと紛れ込んだのだと。
・・・・・・・・・・
以上は冒頭の物語「くまちゃん」からの抜粋ですが、この小説は主人公が入れ替わっていく連作形式の短編集です。第一話の「くまちゃん」で苑子をふったくまちゃんこと持田英之が、第二話ではふられる側になります。
第二話で英之をふることになる彼女が次の第三話では主人公、という風にどんどん立場を変えながら進んでいきます。物語の主人公は、ことごとく「ふられ」てしまうわけです。
あとがきにある角田光代のメッセージは、こうです。
自分が格好いいと思うような仕事をしている人に、猛然と恋をしてしまうことがある。その人の仕事のやりかたがあまり好もしく思えず、恋がさめることがある。こんなふうになりたい、と思った人にいつの間にか恋をしている。ある恋が仕事観をがらりと変える。
自分にとっての仕事というものが、代替えの効かない、抜き差しならぬものになる以前の恋愛 - 仕事を始めてから日が浅く、まだまだ本気を出せないでいる若者たち、そんな学生以上・社会人未満の若者の失恋話が書きたかったのだと角田光代は言います。
はからずも、彼らの恋は成就せぬまま終わりを迎えます。しかし、その苦く切ない恋をしたことで彼らが発見する新しい何か - その気配を書こうと考えたのです。「ふられる」ことも決して悪いことばかりではないですよ、というメッセージがこめられています。
そしてその恋が、自分にとって意味を持ったものならば、たとえ別れ際がどんなに嫌なものでも、またどんなにこっぴどいふられかたをしたとしても、ふられる以前の関係は、私たちを構成するパーツとして私たちの内に在る。もう、どうしようもなく、在る。
その通り。その通り、なのです。みなさんにも、叶わなかった恋の一つや二つは必ずあるでしょう。そんなのはすぐに忘れます、などと思っていたら、これが案外後を引くのです。どうせ長く引くものなら、せめてこの小説のそれぞれのように、その失恋があなたにとって得難い何かになっていますように - と、それだけを祈るばかりです。
この本を読んでみてください係数 85/100



◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
作品 「空中庭園」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「マザコン」「だれかのいとしいひと」「ドラママチ」「それもまたちいさな光」「かなたの子」「笹の舟で海をわたる」「幾千の夜、昨日の月」ほか多数
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