『つむじ風食堂の夜』(吉田篤弘)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2016/09/10
『つむじ風食堂の夜』(吉田篤弘), 作家別(や行), 吉田篤弘, 書評(た行)
『つむじ風食堂の夜』吉田 篤弘 ちくま文庫 2005年11月10日第一刷
懐かしい町「月舟町」の十字路の角にある、ちょっと風変わりなつむじ風食堂。無口な店主、月舟アパートメントに住んでいる「雨降り先生」、古本屋の「デニーロの親方」、イルクーツクに行きたい果物屋主人、不思議な帽子屋・桜田さん、背の高い舞台女優・奈々津さん。食堂に集う人々が織りなす、懐かしくも清々しい物語。クラフト・エヴィング商會の物語作家による長編小説。(ちくま文庫)
いかにも〈ちくま文庫〉らしい作品で、毒気や邪念といったものが一切見当たりません。無いはずはないのですが、表沙汰にしないのがとてもいい。且つシンプルで、そうであるが故になお一層の味わいが後に残ります。
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町角の、いつもつむじ風が吹く十字路の傍にあるので、人はその食堂を「つむじ風食堂」と呼びます。元から名前のない店ではありますが、間違っても「レストラン」などではありません。
あるじ的には「パリの裏町のビストロ」の再現 - なるほどメニューブックなどを見ると相応に分厚く洒落ており、詩集みたいに見えなくもありません。しかし、開いてみれば何のことはない、おなじみの定食ばかりが少々名前を変えて載せてあるだけの代物です。
たとえば「コロッケ」は「クロケット」、「生姜焼き」は「ポーク・ジンジャー」、「鯖の塩焼き」に至っては、「サヴァのグリル、シシリアンソルト風味」などという訳のわからないものになり変わっています。
あるのはナイフとフォークで、はじめての客が「箸はないの? 」と訊いても、あるじは「うちは、これです」と素っ気なく答えるばかりで、何を言ってもニコリともせず、ほとんど口を開くことがありません。あるじの他に、店には姪のサエコさんと猫のオセロがいます。
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つむじ風食堂の常連客にあってこの物語の主人公である「私」は、皆から「雨降りの先生」、あるいは単に「先生」と呼ばれています。「私」は雨を降らせる研究をしているので「雨降り先生」。月舟アパートの最上階にあたる七階にある屋根裏部屋で暮らしています。
アパートのある商店街は緩やかな坂になっており、「私」が食堂へ行く夜遅い時刻になると、必ず足もとのコンクリートの下から水の流れる音が聞こえて来ます。坂の上の銭湯がその時間に湯を抜くせいで、それが足下の水道管を通って川のように流れてゆきます。
「私」は、街の人々の一日の汗だの疲れだのをためこんだ湯とともに、坂下のあかりを目指してひとり歩いてゆきます。五分も歩けばあかりのもとにたどり着くのですが、そこが目指す食堂ではありません。
そこは唯一夜遅くまで店を開けている果物屋で、他が閉まっているせいか、店先に立つと、わずかな光であっても実に心強く明るく感じられます。店の主人はまだ若く、「私」の記憶に間違いがなければ、最初の夜の食堂で、「イルクーツクに行きたい」と手をあげた青年ではなかったろうか・・・・
と、こんな話を皮切りに、「私」は帽子屋の桜田さんや背の高い舞台女優の奈々津さんと知り合い、次になかなかにいい男(「私」はひそかに彼のことを「デ・ニーロの親方」と名付けています)の古本屋の主人などとも知り合ってゆきます。
第2章の「エスプレーソ」と第5章の「手品」では、主に手品師だった「私」の父の思い出と、あと少し、「私」と奈々津さんとの、まだ何ほどもない、しかし確かに生じる甘い気配の様子が語られています。
いずれにせよ、大層な出来事や取り返しのつかない事件などというものは何も起こりません。つむじ風食堂に集う面々が語るのは夢物語であったり、少しの愚痴であったり、訳のわからぬ宇宙論であったりします。
しかし、それがつまらないとか、物足りないかといえばそうではなく、間あいだに、聞き逃してはならないような、生きて死ぬことの運命に深く諦念するような、哲学に似たフレーズがさりげなく差し挟まれています。ある時、帽子屋さんはこんなことを言います。
「投げつけるはずだった石ころをね、いつの間にか掌の中で愛でるようになっちゃうんです」- しばらくの後、「私」が「それが歳をとるということですか? 」と訊くと、帽子屋さんは「なかなかいいもんですよ」と口もとに笑みを浮かべて見せます。
どうです? はっきりとわからないにせよ、何か感じるものがありはしないでしょうか?
この本を読んでみてください係数 85/100
◆吉田 篤弘
1962年東京都生まれ。執筆のかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を続けている。
作品 「百鼠」「フィンガーボールの話のつづき」「空ばかり見ていた」「78ナナハチ」「それからはスープのことばかり考えて暮らした」「イッタイゼンタイ」他
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