『タイガー理髪店心中』(小暮夕紀子)_わたしの血は、よもや青くなってはないだろうな。
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『タイガー理髪店心中』(小暮夕紀子), 作家別(か行), 小暮夕紀子, 書評(た行)
『タイガー理髪店心中』小暮 夕紀子 朝日新聞出版 2020年1月30日第1刷
穏やかだった妻の目に殺意が兆し、夫はつかの間、妻の死を思う。
のどかな田舎町で変転する老夫婦の過去と行く末。
「これでお互いの老老介護が終わるのだな。楽になる。そうだ、楽になるのだ」伸びやかでスリリングな視線、独自の土着性とユーモア。老いた妻の発作的な豹変に戸惑う夫の緊張感を描き、井上荒野氏、角田光代氏、川上未映子氏の選考委員諸氏に絶賛された第4回林芙美子文学賞受賞作。(朝日新聞出版)
その夫婦にとって最大の悲しみは、一人息子の辰雄を事故で亡くしたことでした。
辰雄は小学校に上がったばかりの春、友達数人と、ここから少し北に行った雑木の森にハルゼミを捕りに出掛け、山頂にあった穴に落ちたのだった。
そこに穴があることは、年寄りならだれもが知っていた。戦時中、穴は聴音壕と呼ばれて大事な役を担っていたのだ。地元の者が交代で山に上り、穴に入った。中に隠れて空気の振動に耳を澄まし、遠くにある敵機の種類を判別していたという。「目で見るんじゃのうて、耳を使うんじゃ、いや、気合で見るいうのが正しかったかもしれん」 「あっちはレーダーを持っておったのに、わしらはそんな原始的な方法じゃったんじゃから、やっぱり勝てるはずはなかった」、敗戦後大人たちが醒めた顔で笑うのを、子どもの寅雄は不思議な気持ちでながめていた。その穴に、辰雄が落ちた。
穴の口には、枯れ枝や草が覆いかぶさっていたらしい。そもそも、木ばかりを見上げていて足元には気がまわらなかったのだろう。ハルゼミは小さいし羽は透明だし、捕まえにくい。だから自分がいちばんに捕って、二年生や三年生に自慢したかったのだろう。はしこい辰雄の考えそうなことだった。それからの年月の長さが、ふたりの悲しみを少しずつ覆い隠してくれたはずだった。ところが、最近になって寧子がぽつりぽつりと口にし始めたことは、それをあえて掘り返しているようで、寅雄を少しずつ不安にさせた。(P21.22)
寅雄と寧子夫婦は、これといった取り柄のない田舎町の一角で理髪店を営んでいます。名を 「タイガー理髪店」 といいます。現在寅雄は、八十三歳。来月の半ばには八十四歳になります。結婚して六十年。細々ながら、今も二人は店を続けています。
始まりは、この冬いちばんの寒波到来とニュースが伝えた日、満月から一日過ぎた月が空に溶け出すように、薄ぼんやりと湿った夜だった。水切りカゴに伏せられていた茶碗が、触りもしないのにカチャリと音を立てた、それが合図であったかのように寧子が豹変した。閉店後の掃除は終えていたにもかかわらず、晩ごはんの片付けのあと、「お店の掃除をしなくては」 とあわてて理髪室にたったのだった。
その瞬間の寧子の目に、寅雄は凍りついた。フジウツギがわからなくなるときの空疎な目、それに殺気が加わっていた。生気がないぶん、こちらの生気をあっという間に吸い取りそうな負のエネルギーに満ちている。それはもう見知らぬ者の顔だった。(P67)
寅雄はできるだけふんわりと、寧子の肩に手を載せたのでした。ところが、(手を載せた) その瞬間、寧子は弾かれたように跳ね上がり、振り向きざまに寅雄の手首に噛みついたのでした。
(既にしたはずの) 理髪室の掃除を終えると、次に寧子は、寅雄を見て、
「では、行ってきます」 と言います。
「こんな遅くに、どこに行くんだ」 と寅雄が訊くと、さもそれが当然のように、
「辰雄のところですよ」 と答えたのでした。
言った言葉の通り、寧子は辰雄が落ちて死んだ穴を目当てに山へ行こうとしています。
「ついて来ないで。絶対ですよ。寅雄さんが来ると辰雄はいっそう泣きますよ、そうしたらわたしが寅雄さんを許すわけにはいかなくなるんです」
そう言った寧子の魂は、どこを彷徨っているのでしょう。昼間は同じ。ところが晩になるとまた寧子は同じことを繰り返します。三週間、それはほぼ毎夜続き、寅雄は寧子一人を放っておくわけにもいかず、隠れて後を追います。
寅雄にとってきつかったは、身体よりも気持ちの方でした。思えば、兆しはもっとずっと前からあったのです。ずいぶんと気に入って植えた花であるはずのフジウツギの名を、寧子は寅雄に、日に何度も尋ねるようになっていたのでした。気付かぬふりをしていた寅雄は、存外自分は冷酷で、自分本位な人間ではなかったのかと、今更に思い起こしています。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆小暮 夕紀子
1960年岡山県生まれ。
岡山大学法文学部卒業。
作品 2018年 「タイガー理髪店心中」 で第4回林芙美子文学賞を受賞してデビュー。目下の家族は夫一人と猫九匹。
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