『蹴りたい背中』(綿矢りさ)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2016/11/04
『蹴りたい背中』(綿矢りさ), 作家別(わ行), 書評(か行), 綿矢りさ
『蹴りたい背中』綿矢 りさ 河出文庫 2007年4月20日初版
これまでに幾度も書いているのですが、私が一番感心するのは、やはりこの人の「文章を書く才能」です。語彙が圧倒的に豊富であることはもちろんですが、書くべき対象にピタリと照準を合わせる感性と、それを正しく表現する能力にはただ脱帽するばかりです。
『蹴りたい背中』は、クラスで孤立する女子高生・長谷川初美が一人称で語る青春小説です。初美が思い惑う心情の一々が、誇張も隠し立てもなく、生身の少女の視線で語られていきます。中でも、一人取り残された教室での場景描写は、やるせなく胸が痛みます。
例えば、適当に座って5人の班を作れと、いかにも「テキトウ」に先生が言う場面。案の定、行き場のない〈余り者〉の初美と、クラスにいたもう一人の〈余り者〉の男子・にな川は、最後の帳尻合わせで女子3人組に組み入れられることになります。
クラスで友達がまだ出来ていないのは初美とにな川だけ、・・・それが明白になることは、とてもつらくて、やるせないのです。初美は最初から分かっているのです。適当に座れと言われて適当な所に座る子なんて、一人もいるわけがないのです。
〈余り者〉にとって最もつらいのが、授業の合間の休憩時間です。一度でもつらいのに、それは日に何度もやって来ては〈余り者〉を苦しめます。
授業の合間の十分休憩が一番の苦痛で、喧騒の教室の中、肺の半分くらいしか空気を吸い込めない、肩から固まっていくような圧迫感。自分の席に座ったまま、クラスの子たちがはしゃいで話をしている横で、まるで興味がないのに、次の授業の教科書を開いてみたりして。この世で一番長い十分間の休憩・・
自分の席から動けずに、無表情のままちょっとずつ死んでいく-高校生の頃、そんな思いをした人は少なくないはずです。さらに(これは私の実感ですが)、この苦々しい思いは意外と粘着質で、心のどこかに居座り続けて、時間が経っても消えることがありません。
しかし、初美は並みの女子ではありません。それだけつらい思いをしながらも、決して折り合いをつけようなどとはしないのです。〈余り者〉は嫌だけど、仲間になった瞬間から繕わなければならないグループは尚更嫌だと、かたくなに自分の姿勢を崩しません。
孤立したくないからどこかのグループに所属する-それを不毛だと思い、初美は中学からの親友・絹代からの誘いさえ断ります。どうしてそんなに薄まりたがるのか。ぐったり安心して、他人と飽和することが、そんなに心地よいものなんだろうかと思っています。
・・・・・・・・・・
もう一人の〈余り者〉・にな川もまた、自分だけの世界にどっぷりと浸かる、見方によっては初美を凌ぐ、彼女に「負けたな」と思わせてしまうくらいに、みごとな〈余り者〉です。
にな川は、世に言う〈オタク〉です。彼が愛してやまないのは、〈オリチャン〉と呼ばれるファッションモデルです。この〈オリチャン〉を初美が知っていたことがきっかけで、彼女はにな川の家へ〈招待〉され、彼の異常なまでの偏愛ぶりを知ることになります。
プラケースにびっしり詰め込まれた種々雑多なオリチャングッズの中で、初美を唖然とさせたもの-それは、オリチャンの顔写真に、まだ成長しきっていない少女の裸が、セロテープでつぎはぎしてある小さな紙切れでした。それはまるで人面犬みたいな醜い代物です。
思わず息を詰める初美です。彼女がイメージしたのは、水泳の後の更衣室の風景です。裸を見られないように、筒形のバスタオルを被って水着を脱ぐのですが、パンツを穿く時にはタオルの中を覗き込まないと足がうまく通りません。
覗きこむと、そこははちきれそうなほどHな覗き小屋に変ります。タオルの中で、自分にだけ見えている毛の生えた股の間-いやらしい気持ちが身体の奥に溜まっていくのが分かります。悪寒が走るのに、見つめてしまう。それと同じように、汚いつぎはぎを放せないでいる初美です。
「あんなに健康的なものを、よくこれだけ卑猥な目で見られますね」-心で嘲ってみて、にな川の捩れた欲望に感心しては、興奮する初美です。
あまりに稚拙で醜い、それ故に卑猥なつぎはぎ。そこから連想する自分の裸と、沸き上がる暴力的な衝動。ひたすらオリチャンの世界に閉じこもる、にな川の背中を思わず蹴りたくなる初美・・・
これは明らかに彼女の、出口のない性的衝動と屈折した愛情表現だと思うのですが、みなさんはどう思われるのでしょう? この日を境に、初美のにな川に対する態度は微妙に変化していくのですが、それは恋愛と言うよりも、むしろ友情に近いものかも知れません。
あくまでも背を向けたままオリチャン一辺倒のにな川に対して、「あんたなんか見てないよ」と毒づいて、傷付いたにな川の顔を見たいと願う初美。ライブ会場で警備員に注意されるにな川には「もっと叱られればいい。もっとみじめになればいい」と思う初美。
たぶん、初美はにな川が見ていられないのです。いつまでもオリチャンの世界から抜け出せないでいるにな川に、我慢がならないのです。それと同時に、初美が自分自身に向けた憤りにも感じられます。かたくなに孤立する、自分への苛立ちが転じたものに思えてくるのです。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆綿矢 りさ
1984年京都府京都市左京区生まれ。
早稲田大学教育学部国語国文科卒業。
作品 「インストール」「憤死」「勝手にふるえてろ」「夢を与える」「かわいそうだね?」「ひらいて」「しょうがの味は熱い」「大地のゲーム」など
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