『実験』(田中慎弥)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/14 『実験』(田中慎弥), 作家別(た行), 書評(さ行), 田中慎弥

『実験』田中 慎弥 新潮文庫 2013年2月1日発行

最近、好んで(という言い方が適切かどうか分からないのですが)読んでいる作家の中で、とりわけ異質なのが田中慎弥です。作風からして世に言う〈売れっ子〉ではありませんが、間違いなく相当数の根強いファンを持つ作家の一人です。

まさに〈時代に迎合せず、我が道を行く〉人ですが、何せ、小説の内容が難しい。扱われるテーマの多くが人間の業に関するもので、ある一線を境に、こちら側ではまともな人間、一歩踏み越えればもはや人ではなくなる、そんな瀬戸際の心理が綴られます。

『実験』に登場するのは、〈書けなくなった作家〉の下村満と、彼の幼なじみでうつ病を患う三田春男という男性です。下村は、次作に向けて確かな〈手応えを感じるもの〉を探しています。そして、その前に現れるのが〈自殺願望〉を抱えた春男です。

うつ病の相談に乗るふりをして、春男を自殺へと追い込んで行く。仕かけを施し、春男の意識を死へと仕向けて、その経緯を小説にしようと企む・・・、下村がやろうとするのは、そういうことです。悍ましい、人としてあるまじき行為に下村は手を染めます。
・・・・・・・・・・
下村は、元々春男を疎ましく感じています。病気の春男を過剰に気遣う両親に対しても、こういう夫婦だからこそ春男がこんな状態になってしまったのではないかとさえ思っています。今になって、また病気の春男と関わり合いになどなりたくないと思っています。

春男が下村を家に呼んだのは、首を吊ろうとしたときの自分の様子を聞かせるためでした。春男は能弁に語ります。全く眠れなくなると闇が明確になり、闇ほど明るいものはないということ。闇はいつでも僕をつけ狙っている、と春男は言います。

遺書を書いたことがあり、書き終わるとすごく気持ちよかったと言い、掃除機のコードを引っ張り出し、鋏で元から切り離そうとして掌と指が傷ついた、と言います。自分がしていることをやめたくてやめたくて仕方なかった、だからやめなかった、と言います。

春男が伝えたかったのは、庭の楓の木にコードをかけて死のうとして、〈本気じゃなかったから〉失敗した、ということです。慌てさせたことを両親に謝り、素直に母親の介抱を受けたのは、そのときの傷が、両親にとっては春男そのものだと考えたからだと言います。

春男の母親から渡された「うつについて」と書かれたパンフレットには、うつは気の持ちようでどうにかなるものではない、励ます言葉は逆効果、と書いてあります。

うつが自殺につながる場合があり、大事にしているものを人にあげたりするのが最も分かりやすいサインで、もし死にたいと口にしても、そんなこと言うもんじゃないとか、がんばれとか負けるななどと言ってはいけない、と書かれています。
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小学5年生のとき、春男はカンニングを見破られて、それを貶した生徒を殴って怪我を負わせています。その結果春男は転校し、中学高校大学とはそれなりに進むのですが、就職に失敗したことで家からほとんど出ない生活をしています。

カンニングを唆したのが自分であることを下村は気にかけていますが、春男がそれを口にすることはありません。春男は大人になった今でも、下村のことを「お兄ちゃん」と呼び慕っています。疎ましいけれど関係を断ち切れない、それが下村の、春男との関係です。

身近で事情をよく知った、しかし客観的には何の関係もない、煩わしいだけの存在である春男。下村には、春男が格好の〈材料〉に思えます。

「うつ状態で自殺願望を持つ主人公、その心理」とノートに書きつけたとき、すでに下村にはこれから試そうとする「実験」の筋書が見えており、書きたい衝動が押さえがたいものになっています。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆田中 慎弥
1972年山口県下関市生まれ。
山口県立下関中央工業高等学校卒業。大学受験に失敗、以後一切の職業を経験せずに過ごす。

作品 「切れた鎖」「夜蜘蛛」「神様のいない日本シリーズ」「犬と鴉」「共喰い」「図書準備室」「燃える家」など

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