『東京奇譚集』(村上春樹)_書評という名の読書感想文

『東京奇譚集』村上 春樹 新潮社 2005年9月18日発行


東京奇譚集 (新潮文庫)

 

「日々移動する腎臓のかたちをした石」

淳平が16歳のとき、父親がこんなことを言います。「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない」父親が言ったこの言葉は、ある種の強迫観念となってその後の彼の人生につきまとうことになります。

淳平は新しい女性と知り合うたびに、自らに問いかけます。この女は自分にとって本当に意味を持つ相手なのだろうか、と。そして、その問いかけは常にひとつのジレンマを呼び起こします。

出会った相手が「本当に意味を持つ」女性であってほしいと期待しつつ(そう期待しない人間がどこにいるでしょうか)、同時に、限られた数のカードを人生の早い段階で使い切ってしまうことに怯えもするのです。淳平は、女性に対して少しずつ臆病になります。

時を経て、淳平は31歳。彼はあるパーティーで、キリエという名の女性と出会います。キリエは36歳。背が高くて、とても姿勢がいい女性です。話すうちに、淳平は彼女に心を惹かれている自分に気付きます。

彼女の中にある何かが、彼の心をそそります。しかし、彼はまた考え始めます。この女は自分にとって意味を持つ相手なのだろうか、残された可能性のうちの一人なのだろうか? ストライクなのか? 見逃すべきか、あるいはスイングするべきか?
・・・・・・・・・・
このとき、淳平は駆け出しの小説家になっています。キリエは、本物の小説家に会うのは生まれて初めてだと言い、淳平に対してなぜ小説家になろうとしたのかを熱心に訊ねます。

淳平が今書いている短編小説の内容を聞きたいと言います。本当は執筆途中の小説は他人に話さないことに決めている淳平ですが、彼女になら話してかまわないと思います。どうせ何かにブロックされたまま、小説は一歩も前に進んではいません。

それは30代前半の女性が主人公の話で、彼女は腕の良い内科医で、大きな病院に勤めています。独身ですが、同じ病院に勤める40代後半の外科医と秘密の関係にあります。

彼女は休暇をとって山間の温泉へ行くのですが、河原を歩いているときに奇妙な石を見つけます。赤味がかった黒で、つるつるしていて、見覚えのある形をしています。それが腎臓の形であることに、彼女はすぐに気付きます。本物の腎臓そっくりの石なのです。

彼女はその石を病院の自分の部屋に持ち帰り、文鎮として使うことにします。書類を押さえておくのにちょうどよい大きさで、ちょうどよい重さだったのです。雰囲気的も病院に合っています。ところが、数日後、彼女は奇妙な事実に気付きます。

(と、ここまでが淳平の中ですでに出来上がっているストーリー。キリエはさらに続きを聞きたいと言い、淳平は懸命に頭を働かせて話の行く先を考えます。)

朝になると、その腎臓石の位置が移動しています。彼女は帰宅するときに、机の上に石を置いていくのですが、朝にはそれが違う場所にあったり、床の上に転がっていたりします。部屋にある他のものに異変はありません。ただ石の位置だけが変化しています。

淳平:どうしてその石は夜の間に居場所を変えるんだろう?
キリエ:その腎臓石は自分の意思を持っているのよ。
淳平:腎臓石はいったいどんな意思を持つんだろう?
キリエ:腎臓石は、彼女を揺さぶりたいのよ。少しずつ、時間をかけて揺さぶりたいの。それが腎臓石の意思。

キリエは「この世界のあらゆるものは意思を持っているの」と小さな声で打ち明けるように言います。「例えば風にも意思があり、あるときそれに気付かされる。風はひとつのおもわくをもってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内側にあるすべてを承知している。」

「石もそのひとつね」と、彼女は言います。「彼らは私たちのことをとてもよく知っている。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく」
・・・・・・・・・・
さて、ここら辺りまで読んだところで感想を訊ねられたら、あなたなら何と答えます? 物語の展開は滑らかで、文章は何一つ難しくありません。しかし、いざ2人が交わしている話の中味となると、分かるような分からぬような、何だかしっくり来なくて落ち着かない、なんて気分になりません?

私は、そこが何とも村上春樹らしいと思ってしまうのです。腎臓石の話がどんな風に落ち着いて、最初の父親のアドバイスからして、結局のところキリエとはどうなるのよ、という「オチ」がなかなか見えません。場合によると「オチ」がないまま終わってしまうことさえザラにあるのです。

でも、この短編に限っては安心してください。結論までには、もう〈ひと山〉あることにはあるのですが、最後はそれなりに気持ちよく読み終えることができますので。

これから村上春樹の小説(特に短編小説)をたくさん読もうと思っている方、どうかこれくらいでへこたれないでください。この『東京奇譚集』は、村上春樹の作品世界に馴れ親しむ、ちょうど良い頃合いのエクササイズにきっとなるはずです。

※ 収納作品「偶然の旅人」「ハナレイ・ベイ」「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」以上5編

 

この本を読んでみてください係数 85/100


東京奇譚集 (新潮文庫)

◆村上 春樹
1949年京都府京都市伏見区生まれ。兵庫県西宮市、芦屋市で育つ。
早稲田大学第一文学部演劇科を7年かけて卒業。在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を国分寺に開店する。

作品 「風の歌を聴け」「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」「女のいない男たち」他多数

◇ブログランキング

いつも応援クリックありがとうございます。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

関連記事

『戸村飯店 青春100連発』(瀬尾まいこ)_書評という名の読書感想文

『戸村飯店 青春100連発』瀬尾 まいこ 文春文庫 2012年1月10日第一刷 戸村飯店 青春

記事を読む

『すべての男は消耗品である』(村上龍)_書評という名の読書感想文

『すべての男は消耗品である』村上 龍 KKベストセラーズ 1987年8月1日初版 すべての男は

記事を読む

『ダブル』(永井するみ)_極上のサスペンスは日常から生まれる

『ダブル』永井 するみ 双葉文庫 2020年2月15日第1刷 ダブル<新装版> (双葉文庫)

記事を読む

『向こう側の、ヨーコ』(真梨幸子)_書評という名の読書感想文

『向こう側の、ヨーコ』真梨 幸子 光文社文庫 2020年9月20日初版 向こう側の、ヨーコ

記事を読む

『隣のずこずこ』(柿村将彦)_書評という名の読書感想文

『隣のずこずこ』柿村 将彦 新潮文庫 2020年12月1日発行 隣のずこずこ(新潮文庫)

記事を読む

『乳と卵』(川上未映子)_書評という名の読書感想文

『乳と卵』川上 未映子 文春文庫 2010年9月10日第一刷 乳と卵(らん) (文春文庫)

記事を読む

『いちご同盟』(三田誠広)_書評という名の読書感想文

『いちご同盟』三田 誠広 集英社文庫 1991年10月25日第一刷 いちご同盟 (集英社文庫)

記事を読む

『いちばん悲しい』(まさきとしか)_書評という名の読書感想文

『いちばん悲しい』まさき としか 光文社文庫 2019年10月20日初版 いちばん悲しい (

記事を読む

『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治)_書評という名の読書感想文

『ケーキの切れない非行少年たち』宮口 幸治 新潮新書 2020年9月5日27刷 ケーキの切れ

記事を読む

『逃亡刑事』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『逃亡刑事』中山 七里 PHP文芸文庫 2020年7月2日第1刷 逃亡刑事 単独で麻薬

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

『騙る』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『騙る』黒川 博行 文藝春秋 2020年12月15日第1刷 騙

『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治)_書評という名の読書感想文

『ケーキの切れない非行少年たち』宮口 幸治 新潮新書 2020年9月

『ひとでちゃんに殺される』(片岡翔)_書評という名の読書感想文 

『ひとでちゃんに殺される』片岡 翔 新潮文庫 2021年2月1日発行

『藤色の記憶』(あさのあつこ)_書評という名の読書感想文

『藤色の記憶』あさの あつこ 角川文庫 2020年12月25日初版

『初めて彼を買った日』(石田衣良)_書評という名の読書感想文

『初めて彼を買った日』石田 衣良 講談社文庫 2021年1月15日第

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑